どちらが幸せですか? Which is happier?

作者の仮説によれば、肉体の死後も心は時空を超越したあの世に残ることになる。人間の心は、この世にある肉体から受けていた影響がなくなることで大きく変容するが、記憶を含めて基本的な自我意識は存在する。

さて、ここで、なぜか、このような仮説を嘲笑う人もいるので、仮説の真偽を離れて、別視点から考えてみよう。肉体の死後に、自我意識が存在する場合と存在しない場合を比較する。以後、存在を信じるグループを存在派、信じないグループを非存在派と呼ぶ。

存在派は歳を取っても、元気である。なぜなら、肉体の死が自分の全ての終わりとは思っていないからだ。亡くなったお祖父さん、お祖母さん、お父さん、お母さん、そして、昔お世話になった懐かしい人々にも会うことができる。想起するだけで幸福感を味わえる。「あの世に行ったら、老人の体を脱ぎ捨てて、新しい何かに挑戦したい」などと考える。また、倫理的にも、優れた状態を保つことができる。誰でも地獄には行きたくないし、倫理感情に永遠性を感じるからである。
これに対し、非存在派は、肉体の死に臨んで、自分の全ての終わりしか考えられない。さらに、自分は単なる物質だと信じていれば、倫理感情の意味も失う。能力を失った老人は単なるごみでしかない。悲しく寂しい老後が待っている。頼れるものはせいぜいお金しかない。

ここで、さらに興味深い話に移る。

存在派は、肉体の死後に自我意識があることに気付けば、「そうだろう」と頷く。「そういう生き方をして来て、良かった」と改めて認識できる。一方、もし自我意識がなければ、何も意識しないまま、それだけだ。悔いも反省もない。自我意識が消滅するまで、希望や幸福感を持てた分だけ、得をしたのだ。
これに対し、非存在派は、どうだろうか。肉体の死後に自我意識のあることに気付けば、「大きな間違いをして来てしまった」と反省せざるを得ない。間違った信念を持って生きて来たことに大きな悔いが残る筈だ。一方、もし自我意識がなければ、何もないまま、それで、終わりだ。「自分の信念が正しかった」ということになるのだが、残念ながら、それを認識する意識がない。

即ち、こうした長期的な観点から見ると、非存在派の生きている時のその信念には意味と価値がないのである。この話は単なる笑い話ではない。真理の背景にある大きな知恵に気付いて欲しい。

雰囲気とその力 Atmosphere and Power

物質文明の下で、その存在について曖昧な扱いを受けている雰囲気の話をしたい。即ち、「空気を読めない人」の「空気」である。雰囲気は見えないが、「見えないものでもあるんだよ」と、ここで強く言いたい。なぜなら、雰囲気は、権力者でさえも、それに抵抗することが難しい強い力を持っているからである。

見えないものには、大きく分けて二種類ある。例えば、「呼吸する空気」や「熱」のように目には見えないがこの世(物質宇宙)の物質やそのエネルギーとして存在するものと、ここで言う雰囲気のように、この世には存在せずあの世(非物質宇宙)に存在するものの二つである。

*   ここで述べられていることをよりよく理解するためには、<堀込清一の【宇宙と心】>の<心はどこに存在するのか><この世に一番近いあの世の領域・その1>などを参照してください。

雰囲気の核となる個人の心に沸き上がるイメージや概念、それを支える感情、その感情の中に潜んでいる意味と価値は、二つの伝染ルートを通じて、関連集団内に蔓延する。関連集団は、地域の集まり、趣味のサークル、コンサートの観客から、政治団体、国民全体、全人類まで、多種多様で無数にある。

第一のルートはこの世の多くの人々の言動、例えば、噂や評判、流言飛語、そして、多くの人々の情動、例えば、感激、興奮、不安、恐怖などとそれに伴う肉体の状態変化や無意識の行為、これらが絡み合って関連集団内に溢れ、伝染・共鳴して、雰囲気となっていく。マス・メディアやインターネットなどは、これをさらに増幅する。第二のルートはあの世に始まる集合記憶伝達によるものである。あの世の関連集団の雲に、或る限度を越えて共通経験記憶とそのエネルギーが蓄積すると、その集団の人々の心の中で、その記憶に絡む伝染が急激に広がっていく。このルートでは意味と価値、そして、それを包含する感情が、理屈や道理を超えて、心に湧き上がって来る。従って、一度感染してしまうと、これに自由意志を持って抵抗することは、権力者を含め普通の人間では極めて難しい。この意味に於いて、雰囲気は強い力を持つものである。さらに、この感染は、二つのルートを通じて、この世からあの世へ、あの世からこの世へと、循環(創造循環)を繰り返して雪達磨式に拡大する。大組織は、自分たちに有利な雰囲気が生まれるように、一般民衆に向かって、常時、膨大な数の情報発信を続けている。膨大な数の受信者に膨大な数の発信をすることで、この二つのルートに、雪達磨式の循環拡大が始まることを経験的に知っているのである。

雰囲気と言っても色々なものがある。数人の友人の間に出来上がる一時的な雰囲気もある。それはこの世で生じ、あの世にとどまり、循環が生じることはない。ここで言う雰囲気とは、通常使われるものより、やや意味が広い。政治家・芸能人・スポーツ選手のイメージや人気、会社・商品のブランド、流行、ブーム、ムード、偏見、世相、景気感なども含まれている。また、「この世にある象徴から溢れ出るあの世にある本質の意味と価値、そして、そこから湧き上がる感情など」を雰囲気と言うこともある。例えば、一二月になると、クリスマスの雰囲気が漂う。また、「静かな雰囲気の森だ」などとも言う。

注意しなければならないものは、二つのルートで雪達磨式の急激な循環拡大をする雰囲気だ。これには良いものもあれば悪いものもある。隠れた本質が反映されているものもあれば、そうでないものもある。いずれにせよ、極めて強い力を持つ可能性がある。ヒトラーが考え出したとされる広報テクニックは、今や、広く企業の広告宣伝に利用されている。この人心操作術が、ユダヤ人大量虐殺を招いたのだが、今は、お金が支配する世の中の形成に役立っている。

圧倒的多数の民衆が醸し出す、いわゆる社会的雰囲気は、一度出来上がると、仮に、それが社会を大混乱に導くものであっても、止めることは難しい。雰囲気を支える感情、それが包含する意味と価値が強ければ強いほど、それを阻止することは、困難になる。先の見える一部の人々の警告は無視され、そのような警告を発するものは、一般民衆から、変り者、裏切り者、非国民などと罵られ、蔑視される。

このような状況になると、政界も、メディア業界も、その本質を露わにする。なんと、その分野の主流派が、この多数派民衆の支持に回るのである。一部の政治家やマス・メディアが一般民衆を煽って来たようにも見えるのだが、回り回って、その結果、一般民衆の間に強い社会的雰囲気が出来上がると、今度は、政治家やマス・メディアが、それに従わざるを得ない状況に陥るのだ。芯のある政治家・ジャーナリスト・知識人は、左遷されたり、拷問を受けたりする。我が国に於ける先の大戦が、その典型例だった。一般民衆には疫病ばかりでなく、この種の雰囲気病に対するワクチンも用意しなければならない。

因みに、中国には、「歴史書に何が書かれていても、農民の醸し出す社会的雰囲気が結局世の中を変えて来た」とする歴史観がある。現在では、農民と言うより、一般民衆と言った方が良いかも知れない。支配者は、いつでも、自分の力で世の中を変えたと歴史に記すが、一般民衆の醸し出す社会的雰囲気が変われば、やがて、呆気ない最期を遂げることになるのだ。これは、人類全体の歴史を見ても、当てはまることである。

本質と象徴 Essence and Symbol

この世(物質宇宙)で感覚器官が捉えた刺激は、そのままでは意味を為さない。その刺激は、生命体の物理脳を経由して、心に移る。顕在領域に入った刺激は、心の力によって、瞬時に、時間の無い次元、あの世(非物質宇宙)からダウンロードされる「その刺激に関連する法則、論理、概念、イメージ、記憶、感情など」と出会う。心の中心である自我意識が、それらを絡ませ解釈し、その刺激の意味付けと価値付けを行う。この意味付けと価値付けのベースとなるものは、その時、あの世から心にやって来たものの中の一つ、感情である。この瞬時に行われる一連のプロセスによって、この世での意識的な対応が取られる。
一方、潜在領域に入った刺激は、あの世に存在するその生命体の原型との間に出来上がっている紐付けに従って、反射的に(例えば、本能)、自律的に、この世での反応を引き起こす。

*   ここで述べられていることをよりよく理解するためには、<堀込清一の【宇宙と心】>の<心はどこに存在するのか><この世に一番近いあの世の領域・その1>、<心は鏡>などを参照してください。

ここで注目したいことは、自我意識が経験する意味と価値についてである。<堀込清一の【宇宙と心】>の<価値は何にあるのか>でも説明した通り、自我意識にとっての価値は、あの世からダウンロードされるものの中にある。意味も同じだ。この世に存在するものの中には、決してない。
これが意味することは、「この世に存在するものは、あの世に存在している本質の象徴となっている」ということだ。美術、音楽、文学、デザイン、演劇など、あらゆる芸術に秘められた力は、この世に象徴を創作し、それを見る人の心に「あの世にある、その本質、その意味と価値」を、引き込むことから生じるのである。

面白い話を聞いたことがある。或る達人は、毛筆の文字に現れる或る動きと日本舞踊の或る動作からの流れに、同じものを感じると言う。あの世にある一つの本質が、この世にある二つの別々のものから顔を出している例だ。人の顔付き、動作、姿勢、話し方、話の内容、声の質、等々、これらの中にもあの世にある本質が、無意識的にその姿を現す。

だが、この世にある象徴は、それと直結するあの世の本質との間にずれが生じることも多い。「時間差によるずれ」、「象徴が本質の一部のみを現している場合の全体とのずれ」などが考えられる。例えば、悪女の美顔について考えてみよう。美顔そのものは、間違いなく一つの美の本質の象徴であるが、その顔を持つ悪女の心根までは現していないということだ。一方、無意識的に現れるその場その場の表情や仕草には、心根をその時点で的確に象徴するものが現れている。

因みに、美男美女を追い求めること、それ自体は決して悪いことではないが、それよりも大切なものは心の美しさである。若い頃から、美顔が必ずしも美しい心を象徴しているとは限らないことに気付いていれば、より良い伴侶を得る確率は高まるのである。

愛と想像力を育むには Love and Imagination

お祖父さん、お祖母さんがいる。幼児は、寝る前に、お祖父さん、お祖母さんから、毎晩、毎晩、昔話を聞く。幼児は、これが大好きで、必ず寝る前におねだりする。同じ話を何回繰り返してもよい。幼児が喜んで聞くなら、それでよい。お祖父さん、お祖母さんも、これが嬉しい。
これは、一つの例え話であるが、このような雰囲気や環境が、幼児の愛と想像力を育むのである。この幼児は成長して、愛に満ち溢れた想像力豊かな人間になる可能性が大きい。

因果が絡んでこのような環境は出来上るのだが、自由意志によるところも大きい。但し、予め計画して作ることはできない。飽くまでも、個々人の自発性によっているからだ。お金を払って仕事として昔話を聞かせたとしても、そこに、お祖父さんやお祖母さんの愛は存在しない。幼児を初めとして、関わる全ての人たちに、自発的に生じる愛や喜びがなければならないからだ。物質文明はこの点を見逃している。情報だけでは人間は豊かに育たない。
幼児は、愛の本質に触れて、その意味と価値、その感情エネルギーを無意識的に吸収する。守られているという安心感も付随する。それが繰り返されることで、幼児の心の中に、後天的に、具現化した愛の感情との強い紐付けが出来上がるのだ。

一方、お祖父さんやお祖母さんは、単にお話をするだけで、そこには絵本のような具体的なイメージはない。それが、又必要なのだ。幼児は愛と安心感の中で、その時期に与えられた本能的な力を駆使して、想像の翼を大きく広げる。話の中身から、イメージが次々と湧き上がり、昔話は絵本のイメージ以上に生きて彩り豊かなものとなる。そこでは、様々な感情が幼児のイメージに入り乱れ、意味と価値を強く浮き上がらせる。このようにして想像力は豊かな感情と共に育まれ、思考の力も成長していく。

因みに、想像力を駆使して理想的な生きたイメージを楽しむ為には、テレビ、映画、IT動画などは不向きだ。漫画本は、まだ絵と絵の間を理想的な動きで繋ぐこともできるが、全てのイメージと動きが与えられてしまうと、想像力の働く余地は少なくなる。
動画は情報収集には適しているが、想像を本当の意味で味わうのであれば、他者が作ったことによる限界が立ち塞がる。自分の好きな小説が映画化されたのを見れば、このことがよく分かる筈だ。

知識と知恵 Knowledge and Wisdom

「1足す1は2である」と言えば、誰でも「それは小学一年生の知識でしょう、いや、今は、幼稚園でも教わるかな」などと言う。それでは、バケツ一杯の砂とバケツ一杯の砂利を足すと、バケツ何杯になるのか。これは、その場その場の状況で、答えが違って来るので難しい。そもそも、周囲の状況から切り離された個別の知識というものは、それだけでは単なる情報に過ぎない。その意味では、コンピュータの方が、今や人間よりずっと優れている。

知識は、自然宇宙の中でそれを取り巻き複雑に関連し合っている他の要素から切り離され、或る前提条件の下に独立した形で提示される。従って、そのような乾いた知識がいくらあっても、それだけでは現実世界に通用しない。

現実世界に存在する複雑な周囲の状況を把握し、それらとの関係を理解して、初めて、乾いた知識は潤いのある生きた知識となる。乾いた知識に潤いを与える働きが知恵であり、それは、経験や先天的な閃きから生じる。人間の認識は、その対象の周辺が微妙に暈けている。認識対象とその周辺との関係が明瞭であればあるほど、さらに、含まれる視点が多ければ多いほど、知識は潤いのあるものになって来る。

知恵の伴わない乾いた知識は、時として悲惨な結果を招く。例えば、SNSだ。その利用方法には習熟していても、人生経験の浅い者にとっては、却って、SNSは危険な領域となる。自然環境の中で徐々に育っていく人間関係とSNSの中で作られる人間関係の違いが理解できないからだ。

従って、乾いた知識が蔓延する現代社会に於いては、知恵がますます必要になって来る。最近では、残念なことではあるが、スマホやインターネットなどの便利な情報通信機器やゲーム機器などに支配されて、著しく能力が偏り、人間としての総合能力が退化してしまったアンドロイドのような人たちを多く見かける。

Speaking of “1 plus 1 is 2″, anyone would say “That’s the knowledge of the first graders, no, now , your grandson will be taught in the kindergarten.”  Then if you add a bucket full of sand to a bucket full of gravel, how many buckets will be needed?  This is difficult because the answer will be different depending on the situation and surroundings. The sand enters between the gravel.

The independent knowledge separated from the situation and surroundings is just information.  As far as information is concerned, computers are now much better than humans.

Knowledge is separated from other elements that are complexly related to it in the real world and it is presented in an independent form under some limited conditions.  So, no matter how much such dry knowledge you have, it doesn’t work in the real world. Only after understanding its complex surroundings existing in the real world and also understanding its relationship with them, knowledge will become alive and well. Wisdom is a wonder drug to moisture dry knowledge so that it can work in the real world. Wisdom is born from innate inspiration and much experience.

Human perception is subtly blurred around the subject.  Recognition target has its surroundings under any circumstances. The clearer the relationship between recognition target and its surroundings becomes and the more viewpoints are involved from its surroundings, the more your knowledge can work in the real world.

Dry knowledge without wisdom sometimes bring about disastrous consequences.  For example, SNS.  Those who are proficient in how to use a computer, but inexperienced in life, sometimes get involved in a horrifying event. This is because they cannot understand the difference between human relationships which grow in the real world and those created by SNS.

Therefore, wisdom is becoming more and more important in the modern society where dry knowledge is prevalent. Being dominated by convenient information and communication devices such as smartphone, Internet and so on, the number of android-like people who are biased and have deteriorated in their overall human ability has increased unfortunately.

人の心 Human Heart

人の心

人は、語らいや触れあうことで生きている。

それなのに今のコロナウイルスは、それを阻む!

人の心が、どんどん貧しくなってしまう。

でも、昔から「ピンチはチャンス!」と、よく言ったものだ。

こういう時こそ、その人の心の中が見えてくる。

思いやりの気持ち?

自己中心的な気持ち?

人は、一人では生きていけない事を再認識しよう!

お互いに助け合い、気遣う気持ちを忘れてはいけない!

どんな時も‼

 

Human Heart

 People live by talking and touching each other.

However, the current coronavirus blocks it.

So, I’m afraid that people’s heart becomes more and more poor.

But old saying teaches us, “Pinch is a chance”.

Under these circumstances, the inside of your heart becomes visible.

How compassionate are you?

Do you feel selfish?

Don’t forget that people cannot live alone.

Don’t forget to help each other and care at any time.

医術 Medical Treatment

 医術

医者は機械の修理工とは違う。しかし、現代の医者の多くは、まだ人間の肉体だけを見て物理と化学の世界に閉じ籠っている。確かに、コンピュータ技術やゲノム解析などの進展によって、21世紀の医学は、基礎分野に於いても、臨床分野に於いても、大いなる進化を遂げつつある。このような視点から見て、物理と化学の世界は、それは、それで大切なものだが、「人間は心と体で出来ている」という基本から外れては、真の意味で人間の病を治癒することはできない。

物質文明の偏りから来る教育システムの歪みが、心を忘れた多くの医者を作り出している。解剖学などでは、特に、「心の働きのある肉体とそうでない肉体は、必ずしも同一ではない」という基本認識をベースにしなければならない。

そもそも、昔から医者が特別に尊敬されて来た理由の一つは、「医者は、患者の全人格を考慮して、患者の治療に当たって来た」という歴史があるからである。

医術の目的は、肉体の病気を治療するだけではない。肉体に現れる病気の多くは、心が関与しているからだ。従って、肉体の延命も究極の目的ではない。「患者の心と体が健やかであるように導く」ことが、その究極の目的だ。古くからの成句の通り、「医術は仁術」である。

筆者の仮説から言えることは、「通常、潜在領域に於いて、心が先に死を決意して、それで、その後に肉体が死を迎える」ということだ。心が総合的な視野から死を決意した後に、医術が肉体の延命を図ることは空しい。

自然宇宙の摂理からすれば、全人間(心と体)は、自律的にその健康が保たれるように、設計されている。それにも拘らず、心の側から来る不調和か、肉体側から来る不調和が、病気の原因となる。いずれの場合でも、生活の質を向上させ、心を生き生きとさせ、自己免疫力の活性化を図るのが一番である。それが「病気治療の基本となる」ことに間違いはない。転地療法や気候療法の見直しを含め、「人格療法」のようなものを、今後、重視する必要がある。

Medical Treatment

 A doctor is not a machine repairman.  However, many modern doctors are still locked in the world of physics and chemistry, looking only at the human body.  Certainly, due to the remarkable progress in computer technology and genomic analysis, medical science in the 21st century is undergoing great evolution in both basic fields and clinical fields.  From this point of view, the world of physics and chemistry is still important in that respect. But you cannot heal human diseases in a true sense, if you deviate from the basic concept that “humans are made up of the mind and body” . 
Distortion of the educational system resulting from the bias of material civilization has created many doctors who don’t care about human heart.  anatomy has to have the basic concept that “the body with the work of the mind and the body without it are not always the same”.
In the first place, one of the reasons that doctors have been particularly respected since ancient times is that they have a history of treating patients in consideration of the overall personality.
The purpose of medical treatment is not just to treat physical ailments.  Many of the diseases that appear in the body involve the mind.  Therefore, prolonging the life of the body is not the ultimate purpose.  The ultimate goal is to “make the patient’s mind and body healthy”.  As the ancient phrase says, “medical treatment is benevolent act”.
We believe that “in the latent area, the mind usually decides to die first, and then the body dies.”  After the mind decides to die from a holistic view, it is vain that the medical treatment seeks to prolong the life of the body.
From the providence of the natural universe, all human beings (heart and body) are designed to maintain their health autonomously.  Nonetheless, the incongruity that comes from the mind side or from the physical side causes the disease.  In any case, it is the best to improve the quality of life, bring the mind to life, and activate the autoimmune power.  There is no doubt that this is the basis of disease treatment.  In the future, it is necessary to emphasize things such as “personality therapy” including review of translocation therapy and climate therapy.

自由・平等・民主主義と真社会性 Freedom,Equality,Democracy and Eusociality

現進化段階の人類にとって、数多くの矛盾を内包するものではあるが、やはり、自由・平等・民主主義は、我々社会が向かうべき基本的な方向性を示していると思う。
だが、この自然宇宙の超知的設計創造者は、社会性を模索する生命種に対し、自由・平等・民主主義とは全く異なる、進化の方向も呈示している。それが、真社会性である。

真社会性とは、アリやハチ等の集団によく見られる社会性を定義する言葉である。社会を維持するための役割分担が、遺伝的固定性を持って、体やその機能の違いにまで及んでいる進化形態である。多くの場合、生殖は少数の女王に任せられ、一般の雌は、女王に比べて体も小さく、不妊であり、仕事や戦いに、その役割を担う。
定義を緩やかに考えた場合、アリやハチばかりでなく、カメムシやアブラムシや甲虫、クモやハダニ等にも、真社会性を呈するものが存在する。或る種のアブラムシでは、天敵を攻撃する役割を与えられた幼虫(前二対の足が発達している)は、二齢になることなく、即ち、成虫になれずに死んでいく運命を持つ。
この他、サンゴ礁に集団で生息する或る種のテッポウエビにも真社会性が認められるし、更には、哺乳類にも、真社会性を持つものが発見されている。ハダカデバネズミ、ダマラランドデバネズミである。ハダカデバネズミは、体長10センチ程度の出っ歯の体毛無しネズミで、エチオピアやケニア等の地中にトンネルを掘って集団で棲んでいる。アリやハチと同様に、女王ネズミと生殖器官が発達しない働きネズミに分化している。
個体が形態・機能的に分化して集合体となる群体にも言及しておこう。植物では、ケイソウ類に、動物では、カイメンやクラゲの仲間等に見られる。これも、真社会性がその方向を極めた一つの結果であると考えられる。

さて、本題に戻ろう。人類も、社会性を持つ種である。今後、社会が効率化して、益々、高度な役割分担が要求されると考えられる。効率化を第一目標にすれば、真社会性が強く求められる。だが、それは、自由・平等・民主主義とは一致しない点も多い。
男性と女性の形態的・機能的分化は既に与えられたのものだが、今後、社会的役割として、どうしていけばよいのだろうか。働き過ぎや過度のスポーツをする女性グループが何世代も続くことで、不妊カーストが発生する恐れはないのだろうか。本能的に与えられている競争と協調の意識矛盾をどうバランスさせればよいのだろうか。人間的・頭脳的・技術的・肉体的に優秀なグループとぼんやり人真似グループの社会的役割と待遇をどう考えたらよいのだろうのか。社会に害悪をもたらそうとする人間や怠け者と手を差し伸べなければいけない社会的弱者をどう切り分けたらよいのだろうか。
又、次の様な視点から、社会を見る必要もある。ハダカデバネズミの場合、働きネズミが、女王ネズミを妬んだり、自分の境遇に対し不満を持つことはない。全て、本能の為すところである。人間の場合、意識が進化している分だけ、妬んだり、不満を持ったりする。実は、自由・平等・民主主義には、共産主義も同様だが、高邁な理念の裏に、このようなネガティブな感情が潜んでいることもあるのだ。幸福とは何かという疑問に答える際に、一つのヒントを与えている。

人類社会の向かうべき方向性を模索する場合、自由・平等・民主主義と真社会性の二つの視点から考えてみるのも面白い。

For humanity at the present evolutionary stage, although it contains many contradictions, I think that freedom, equality, and democracy still show the basic direction that our society should take.
However, the creator of the natural universe’s super-intelligent design also presents a direction of evolution, which is completely different from freedom, equality, and democracy, for the species of life seeking for sociality. That is true sociality(eusociality).

True sociality is a term that defines sociality often seen in groups such as ants and bees. The division of roles for maintaining society reflects an evolutionary form that extends to differences in the body and its functions with genetic fixation. In many cases, reproduction is left to a small number of queens, and the average female is smaller than the queen and is infertile, and plays its role in work and fighting.
If the definition is loosely considered, not only ants and bees, but also stink bugs, aphids, beetles, spiders, spider mites, etc., exhibit true sociality. In some species of aphids, the larvae (developed in the front two pairs of legs) that have been tasked with attacking natural enemies have the fate of dying before they reach the second instar, that is, without becoming adults.
In addition, true sociality is also recognized in some species of Alpheus Brevicristatus that collectively live on coral reefs, and further, mammals are also found to have true sociality. These are the naked mole rat and the damara land mole rat. The naked mole rat is a rodent-free rat with a length of about 10 cm, and lives in a group by digging a tunnel in the ground in Ethiopia and Kenya. Similar to ants and bees, they are differentiated into queen rats and working rats in which the reproductive organs do not develop.
Let us also refer to a colony where individuals are differentiated morphologically and functionally into aggregates. In plants, it is found in diatoms, and in animals, it is found in spiders and jellyfish. This is also considered to be one result of the true social orientation of the direction.

Now, let’s return to the main subject. Humankind is also a species with social characteristics. In the future, it is considered that society will become more efficient and increasingly sophisticated division of roles will be required. If efficiency is the first goal, true sociality is strongly required. However, there are many points that do not correspond to freedom, equality, and democracy.
The morphological and functional differentiation between men and women has already been given, but what should we do in the future as a social role? I wonder if fertility caste can occur due to generations of overworked or oversported women’s groups. How should we balance the inconsistent contradiction of competition and cooperation? What should we think about the social roles and treatment as to groups that are humanely, intelligently, technically, and physically excellent and groups that are vaguely imitating the others without definite thinking ? What should we do to separate socially vulnerable people who have to be saved from ethical viewpoint and lazy people who are bringing harm to society?

It is also necessary to look at society from the following perspectives. In the case of the naked mouse, the working rat does not envy the queen or dissatisfy herself with her circumstances. Everything remains instinctive. In the case of human beings, they are jealous and dissatisfied because their consciousness has evolved. In fact,  such negative emotions are hidden behind noble ideas of freedom,equality and democracy, needless to say communism. It gives one hint in answering the question of what is happiness.

When searching for the direction in which human society should go, it is interesting to think from two perspectives: freedom, equality, democracy and true sociality.

えびす様 Ebisu

七福神で、唯一人、日本由来の神様と言えば、えびす様ですが、この神様は竿で鯛を釣り上げている姿が有名です。その意味は、「釣りして、網せず」ということだそうです。これが、長い目で見た商売繁盛の秘訣なのです。商売は、適度の規模で適度の利益を上げて永続させるもので、大網を張って、更に、その網を大きくして、社会の利益を独占するものではないということを教えてくれているのです。

翻って、アメリカ人から教わった現代の大規模ビジネスは、どこに向かって進んでいるのでしょうか。海山を崩す勢いで大網を広げて、自分達だけの目先の利益を追求するその姿勢は、えびす様の「釣りして、網せず」とは、正反対のものです。短期的繁栄を達成しても、長期的に見れば、自滅行為です。自分達が生かされている自然環境の破壊については言うまでもありませんが、大規模ビジネスが生み出す商品やサービスを消費する一般大衆の大部分は、大規模ビジネスによって押し潰されかかっている中小零細企業の従業員です。この人達の購買能力を低下させて、自分達ばかりの繁栄は有り得ないのです。

Speaking of the seven deities of good fortune, the only person who is from Japan, is Ebisu, but this god is famous for catching sea bream with a rod. The meaning is that it means “fish and not net.” This is the secret of prosperous business in the long run. It teaches us that business should not end up by monopolizing the interests of society, but it should make a good profit on a moderate scale and make it last forever.

On the other hand, where is the modern large-scale business taught by Americans going? The attitude of spreading the large net with the force to break the seamount and pursuing the immediate profits of ourselves is the opposite of Ebisu’s “fishing, not netting”. Achieving short-term prosperity is self-defeating in the long run. Not to mention the destruction of the natural environment in which we are alive, but most of the general public who consume the products and services produced by large-scale businesses are employees of small and medium-sized enterprises that are being crushed by large-scale businesses.   It is impossible for large-scale businesses to prosper themselves by reducing  the general public’s purchasing ability.

爺と坊主たちの戦い

最近、躾という文字を見かけることが少なくなりましたが・・・

先日、こんなことがありました。客間に置いてある大型のラジコンヘリのアンテナの先端が折れているのを発見。我が家には、近所の子供たちがよく遊びに来ます。子供たちには、勝手に、部屋に入ったり、置いてあるものに触れないよう注意をしていたのですが、どうも約束を守ってもらえなかったようです。

現行犯であれば、注意の仕方も簡単ですが、この場合の叱り方には注意が必要です。某政治家、某官僚、某大学運動部監督のような答えが返ってくることも考えられます。

そこで、爺は色々考えてみました。
男の子であれば、めったに見ない大きなヘリに興味を持つのは当然、コントローラーにも触ってみたい。それを無防備に置いてしまった爺にも責任があるのかな、この子には前にも小さないたずらがあったのに?
持ち主である爺は、なぜ、いたずら対策をしなかったのか。
子供好きの爺ではあるが、これからは、子供が勝手に家に入れないようにすべきなのか。
家の中でしっかり防備すべきなのか。
それとも、問いただして、善悪について考えさせるべきなのか。
起きてしまったことの正直な報告をさせるべきなのか。

躾とは何だろうかと考えてしまいました。他人の子供も自分の子供も区別をせずに叱れるかな?

イルカとチンパンジー

イルカとチンパンジーはどちらが優れているのか。この質問には、様々な視点からの意味と価値があって、一概に答えることはできない。

チンパンジーは自己と他者・外界を厳しく分別・意識して生きている。自己や自己の所属する小さなグループを最優先して、他者と競争し、それに打ち勝つ能力を進化させてきた。愛の感情や他者を思いやる気持ちが全くない訳ではないが、他のグループと縄張り争いをして、場合によっては、相手の子供を引き裂いて食べてしまうこともある。お腹が空けば、仲間の食物を奪ったりもする。この方向での進化の最先端には、チンパンジーとゲノム配列がほんの僅かしか違わない人類がいる。人類もこの種の競争に打ち勝つため、知能を高めて、他者・外界を自己の都合に合わせて改変する力を進化させた。今や、自然の仕組み・実態の発見(科学)とその応用(技術)は、この意味に於いて、人類を他の生物とは次元の違うステージに引き上げたのである。

イルカは、当然のことながら、生存本能を備えており、生きるための競争はするが、それよりも、他者・外界との一体感を意識する能力を高め、他者・外界と喜びを共有するフレンドリーな感性を進化させてきた。イルカは、遊び好きで、好奇心旺盛、知能もそれなりに高い。見知らぬものを恐れて敵視するのではなく、安全と見抜けば、好奇心から、接触してくる。仲間の子供たちにも愛情を注ぎ、仲間と食物を分け合って、喜びを共にすることができるのだ。

チンパンジー型の能力だけでは、もう、人類は、この地球上で生き残ることはできない。物理的に巨大な力を持ってしまったからだ。バランス良く、イルカ型の能力を進化させなければならない。

どうすれば良いのか。筆者の仮説する「集合記憶感情伝達・創造循環・本能化・進化の仕組み」(別項参照のこと)に注目して欲しい。より多くの人々が、世代を重ねて、意識的にでも(建前からし始めたとしても)、他者と喜びを共有する体験を、積み上げれば、それで良いのだ(このためには、戦争のない世界、より良い社会を構築する必要がある)。やがて、前述の仕組みが動きだして、他者・外界との一体感を本能的に意識することのできる心の進化が人類全体に訪れるのである。ここまで進化すれば、もう、本音と建前を使い分ける必要がなくなる。

恋愛の自由

人間とは、時に天使の心と繋がり、時に動物的本能に衝き動かされる、このような進化の途上にある生き物である。

「多くの哺乳類のオスは、自己の子孫を残すため、交尾対象のメスが子連れの場合、本能的に、まず、その子を殺そうとする」ことが知られている。

人間の場合、「子連れ女性の恋愛の自由を奪おう」などとは言わないが、ここに課題があることも事実である。長い目で人生を見ると、不幸の種がここに存在していることがある。マス・メディアで、事件として、報道されることも多い。

外見だけで判断してはいけない。天使のような男性は、それほど多くはいないのである(天使のような男性と巡り合って、幸せな人生を送る子連れの再婚女性もいるが)。

未完成のナショナリスト

ナショナリズムの最小版は、自己本位主義だ。自己を大切にすることは、基本中の基本であり、大切なことである。だが、自己と他者は、あの世に於いて同じ根から生じていることを理解しないと、自己破滅に陥る。同じことが、家族中心主義や仲間優先主義にも言える。地域優先主義にも国家優先主義にも当てはまる。即ち、ナショナリズムは、他者と同根であることを深く実感することで完成形となるのである。別の言い方をすれば、「未完成のナショナリズムは、自己崩壊に向かう矛盾を内包している」ということになる。今、原野に一本の植物が葉を茂らせ花を咲かす季節を待つ。この花を咲かせようとして、周りの植物を除草剤で全滅させるとする。この植物の周りは、草木一本生えない不毛地帯となる。この植物はどうなるだろうか。

自己本位主義は、皆から嫌われ、社会から高い評価を得ていない。だが、自己を大切にすることは、重要なことで、誰でもそうしている。だから、「他人も、自分と同じように、自分自身を大切にしている」ということを実感できないと嫌われるのだ。この意味をよく理解して欲しい。
家族中心主義はどうだろう。例えば、運動会で他人の迷惑を顧みず、運動場に入って我が子の写真を取りまくる父親は美しいのだろうか。家族を愛するその姿は美しいが、「他人も同じように家族を愛し、子供の運動会を楽しみにしている」ことが見えない、その視野の狭さは、稚拙としか言いようがない。
自国を愛することは美しい。我が郷土を愛し、我が家族を愛することは美しい。だが「他国民も、同じように、自分の国を愛し、自分の郷土を愛し、自分の家族を愛している」ことが実感できなければ、美しくないどころか、危険である。

「世の中に幾億万の母あれど、我が母親に、優れる母なし」という歌がある。これがどう読めるかによって、人間の大きさは変わってくる。そして、その人間が乗り越えなければならない課題も変わってくるのだ。未完成のナショナリストは、自分の母親だけが特別な存在で、自分の母親だけが世界一だと素朴に読む。それは、それで美しい。だが、その背景に、自分は、特別な存在だという稚拙な思い込みがある。
完成したナショナリストは、「この作者は、普遍的な人間性と一体化した自分を実感して、その上で、改めて、自分の母親を至上のものとして詠っている」と読む。普遍的な母親の愛の本質に触れることで、この歌は、逆に、幾億万の人々のエネルギーを持って、心に迫ってくる。幾億万の母親の様々な愛と、その愛それぞれを至上のものと感じる幾億万の人々の姿が、大きなスケールで心に浮き上がってくる。

未完成のナショナリストは、支配層に利用され易い。政治的野心が利用するものの一つとして、「人種・民族・宗教・文化の違い」がある。他国の人々を本当には知らない、その弱点を突かれて、不安、恐怖、憎悪、侮蔑心、敵愾心が煽られる。よく知っていれば涙を流して共感するかもしれない敵国の兵士に、お互い、弾丸を撃ち込む。完成したナショナリストであれば、敵は人間でないことを知っている。人間を破壊しようとする感情が敵であることを知っているのだ。同じ根を持つ仲間を破壊すれば、自分も枯れてしまう。

21世紀初頭の世界的大問題として、移民や難民の受け入れ問題が浮上している。異文化、異なる価値基準を持った人々の受け入れは、様々な社会的摩擦を引き起こす。特に、受け入れ国の下層に位置する人々は、受け入れられた人々との競争により、大きな社会的・経済的打撃を受けるのだ。この事実を軽視してはいけない。しかし、これらをよく見てみると、元々、受け入れ国に存在する社会・経済ルールの歪みがベースになっているものが多いのだ。例えば、元々ある劣悪な住宅事情とその地域格差、元々ある低賃金労働とその労働環境などに起因するものが多い。社会・経済ルールの歪みを是正することは、こうした打撃を和らげる働きにも繋がるのである。
当然のことではあるが、移民や難民の受け入れ負担は、国民、皆が平等に引き受けなければならない。同じ根を持つ人類の兄弟を救うことは、長い目で見れば、必ず自分たちの社会を救うことになるからである。だが、性急・不備な受け入れはいけない。社会的な混乱を引き起こす。受け入れの理念を明示し、その方向に向かって、時間を掛けて、できることから一つずつやっていくしかない。
考えてみれば、現生人類は、その発生以来、移民や難民と同様に流れ流れて、世界中に拡がった。その間、未完成のナショナリスト同士による激しい争いがあったことも事実だ。多くの血が流された。しかし、結果としては、血が混ざり合って今日の繁栄に漕ぎ着けたのである。ちなみに、日本人は、人類学的に見て、この混ざり合いの良い見本である。異なる文化、異なる血を持つ者たちが同化して日本民族を作り上げたのだ。同じ血を引く近親交配だけでは、劣性遺伝が現れて、衰退するばかりだ。文化面でも、同様に、異質性の導入が必要である。
大きな視野に立てば、「仲間を大切にする」ということは、「他者を受け入れる」ということでもある。仲間が大事だからといって、その仲間とばかり付き合っていれば、やがて自滅するからだ。異なる文化を持つ者たちと交わってこそ、世の中は進化して持続的な繁栄が生まれる。人間はそのように出来ている。

未完成のナショナリストとは、自分自身をよく理解できていないナショナリストのことを言う。他の世界を理解することで自分の世界が理解でき、自分の世界を良くすることができるのである。

ここはどこ?私はだれ?

10月初旬、友人2人と河口湖、山中湖へ出かけた。高速バスで河口湖駅へ着いたときに、ビックリ!駅前に大勢の人がいたが、日本語が全く聞こえなかった。友人と顔を見合わせて、「え!」と思い、出た言葉が「ここはどこ?私はだれ?」であった。日本人としての立ち位置が分からないままに、観光立国の宣伝、オリンピックの開催などが囃し立てられ、”おもてなし”という言葉も流行っているが、「本当に大丈夫なのかな?」と感じた。

新しく優れたものは・・・

新しく優れたものは、それが世に出た時、社会から理解されることは極めて少ない。
もし、直ぐに高い評価を受けるならば、そう評価する人達が、既に、多数、社会に存在することになり、「それは新しいものではない」ということになる。

既成の知識層やマス・メディアが、理解しようとしない、注目することのないところで、 日々、地道に、努力を積み重ねている「名も無き人々」の土台作りによって、真の社会進歩は支えられているのだ。

大きな根を持つ植物

今、この野原に、赤、白、黄色の花を咲かせる植物が繁茂している。

この植物には、光を好むもの、日陰を好むもの、乾燥を好むもの、湿気を好むものがある。日照りの時には、光を好むものと乾燥を好むものが活躍し、雨続きの時には、日陰を好むものと湿気を好むものが活躍する。こうして、頑張って、今日の繁茂を達成したのだ。だから、好みはみんな違ってよい。

また、三色の花は仲良く一緒に咲き誇り、そよ風に揺れている。自分と色が違うからといって、他の色の花を嫌ったりすることは決してないのだ。

この植物は、地面の下にある大きな一つの根に、自分達すべてが繋がっていることを知っている。

好きになれないもの、なれるもの

個人的な感想です。
「人それぞれ」は大切です。
だから、「皆同じ」も認めます。

でも、有名人がやっている、皆がやっている、
それで、関心を持って外見を真似る、・・・好きにはなれません。
何か、ハーメルンの笛吹き男にそそのかされた集団自滅の匂いがします。

人の思惑など気にせずに、
その内容に触れると、ワクワクする、意味が分かる、
それで、探求する、自分に合わせて楽しむ、・・・好きな生き方です。
これなら、生きる意味が実感できます。

マモン

皆さんもご存知の通り、マモンとは、旧約聖書に登場するお金・財・富の神様である。本来、人間は本物の神様のしもべである筈なのだが、その時代、放っておくと、マモンのしもべに成るものが続出した。そこで、神様は警告する。「私とマモンの両方に仕えることはできない」と。

現代を生きる我々に対し、もう一度、この言葉が発せられるかも知れない。そもそも、マモンは、「人間の欲望と仲間への信用」から生まれた、人間(集団全体)に仕えるためのパワーである。お金に着目して簡単に言ってしまえば、「人間は、本来、お金の主人公」ということだ。お金は、人間によって、大いに利用されなければならない。

お金は、人間社会を回り歩くことで、そのパワーを発揮する。日本では、昔、その性質を見抜いて、お金をお足と呼んでいた。お足を使って豊かになることを知っている人達は大商人と呼ばれた。

だが、欲が過ぎて、社会全体を顧みず、自分達だけにお金を留めて置こうとすると、立場は逆転して、「人間がマモンの奴隷になる」という法則がある。お金は、程々に、有効に、使わなければならない。この法則にも目を向けなければならない時代が来ている。

理系・文系

 理系・文系という概念は、日本人が発明したのかもしれない。他国の人に比べて、直ぐ口にする。この世界が、理系と文系で、明確に2分されている様な印象を与える。理系事象と文系事象は、実際には、絡み合っていて、明確に分離できない。或る前提条件の範囲内に理系事象を閉じ込めて、初めて、この分離は成立するのである。

 「私は理系だから文系のことは理解できません。」、「私は文系だから理系のことは理解できません。」などと言うのは、決して、建設的な発言ではない。「私は、知的に偏っています。多視点に立つ努力を放棄し、思考範囲を狭めています。」と言っている様に聞こえる。 

 理系・文系を超えた分厚い教養基盤の上にこそ、理系であれ、文系であれ、美しい専門の花が咲くのである。

個と集団

個人主義は美しい・・・醜い。
家族主義は美しい・・・醜い。
同胞主義は美しい・・・醜い。
会社主義は美しい・・・醜い。
地域主義は美しい・・・醜い。
民族主義は美しい・・・醜い。
国家主義は美しい・・・醜い。
世界主義は美しい・・・醜い。

視点・立場が異なると、価値は逆転する。
バランスが悪いと、醜くなる。

競争と協調

 我々は子供の頃、「一生懸命やって、学業成績を上げろ、運動会で一等賞を取れ」などと言われた。それで、頑張って競争し勝ってみたら、今度は、「協調精神が足りない」などと注意される。人間は、レイモンド・チャンドラーの小説で探偵フィリップ・マーロウが言ったように、「強くなければ生きていけない、優しくなければ生きている資格がない」のかも知れない。

 切磋琢磨し競争しなければ、個人としても社会としても、進歩・向上がない。だから、競争は必要である。しかし、協調がなければ、その進歩や向上は、個的なものにとどまり、社会的な相乗効果が期待できないばかりか、社会的な累積も難しい。さらに、秩序は失われ、競争は激化し、争いが蔓延し、少数の勝者のみが生き残る。結果として社会は衰退する。

 我々は、自分を狙う犯罪者に優しくするのは難しいが、相撲で勝負した相手には、侮蔑ではなく礼を持って接する方が良い。山の柿の実は、自分たちが食べる分だけ取ったなら、後は、鳥のために残す気配りが必要である。

 時代や環境、自分の周囲の状況によって、刻々と微妙に変化する競争と協調の一見矛盾する均衡点を瞬時に適格に探り当てるバランス感覚は、人間にとって極めて重要な能力である。これは、学校の授業で教えてくれるものではない。先天的な差異はあるが、子供の頃に自然の中で遊び、友達や兄弟と小競り合いをして、無意識の内に身に付けるものである。

 歳を取って振り返ると、次のようなことも言える。子供の頃や若い頃は、視野狭小で、勝つために、がむしゃらに競争した。結果として、強さと能力に磨きは掛かるが、それと共に、相手の気持ちも分かるようになる。自分の痛みは相手にもある。歳を取るに連れ、自我意識は拡大し、協調の精神が自発的に生まれて来る。

文字の伝える力・伝わらない怖さ

あなたはこんな話を聞いたことがありますか。

或る時、同級生のA子さんとB子さんが映画の話で盛り上がり、映画を一緒に見に行くことになりました。その話を聞いた友達のC子さんが「私も一緒に行きたい」とA子さんに言い出したので、A子はそれをB子さんに伝え、B子さんの了解を取り付けました。

映画の前日にB子さんはC子さんにメールを送りました。
「あんた、なんで来るの?」と短い文でした。

なんと、このメールがB子さんへの深刻ないじめの引き金となってしまったのです。

B子さんは、単に、「あんたは自転車で来るの?」と聞きたかっただけなのに!

長幼の序

 お祖父さん・お父さん・お兄さん・僕の順序、お祖母さん・お母さん・お姉さん・私の順序は、人間がまだ猿だった頃から、とても大切なものだった。隣の小父さんも、学校の先輩も、年少の僕にとっては、目上の人だ。昔の人は、人が社会で幸せに暮らすための知恵として、この感情・感覚から生まれる秩序を「長幼の序」と言って、大切にしてきたのである。

 誤解を避けるために付け加えると、民主主義の世の中では、「長幼の序」は、人間の価値順位に繋がるものでもなければ、命令を下すための権利順位に繋がるものでもない。この意味では、当然のことながら、年長者、年少者、共に、皆、平等である。だが、「年少者が年長者に敬意を払うことを知らない社会が平等な社会だ」と考えるのは大きな間違いである。

 「長幼の序」が示す意味・価値(或る種の感情・感覚が支える)を文化として共有すれば、社会は、この領域に於いて、混沌から秩序に向かうことができる。この点が重要なのだ。親と子が友達の関係にあれば、社会は混乱する。親が子を、子として意味・価値付けできなければ、子は全うに育たないし、子が親を、親として意味・価値付けできなければ、子は全うに育たないのである。

 平等ということを考える上で、「差別」と「区別」は異なったものである。所謂、「差別」が不平等を生む源泉であると定義すれば、「区別」は平等な社会にも必要なものとして定義できる。男女の区別、役割の区別などを考えれば、直ぐに分かる。男性が子供を産めないから不平等だという人はいないし、学校の先生が生徒を教育するのは不平等だという人もいない。

 「長幼」には、自然が人間に与える役割の区別がある。

集中の危険

 ここに、大きなクヌギの木がある。樹液が大量に噴き出て、味も香りも申し分ない。林のカブトムシたちの間で、噂はたちまち広まった。或る夏の夜に、カブトムシたちは、雄雌一ペアーを除いて、その木に一斉に集合した。だが、運の悪いことに、集まったカブトムシたちは、その時、丁度、待ち構えていた子供たちに一網打尽に捕獲されてしまったのだ。残ったペアーは言った。「だから、言ったのに」。もう、遅かった。集中の危険である。

 都市に過密状態で住むこと、満員電車に乗ること、渋滞の道路で運転すること、混雑する人気の娯楽施設や商業施設に行くこと、などを象徴している。有名で味も香りも良い樹液に、一斉に集まる人たちへの警告である。
 現代人の集中する悪癖は、大袈裟ではなく、このままでは、いずれ集団を破滅へと導く。

 人の生きる意義は、人真似をして生きることではないし、人が欲しいと言うものを欲しがって生きることでもない。人々の個性や事情は、皆、それぞれ違っている。生まれも、育ちも、違う。これからも違った人生を歩むに違いない。受けた情報は、自分自身で考え、自分自身で判断し、自分自身に合わせて処理しなければならない。そうすることで、初めて、自由意志の行使が可能になり、生きている意義が生まれるのである。

科学と倫理の大前提

 科学や数学の前提となる公理や論理(その底を流れる絶対感・真理感)、そして、倫理感情を支える絶対感・真理感は、共に、神を信じるように信じるしかない、人間の能力を超えた領域にある。
  しかし、それでも、科学や数学は、そのような前提の上に、客観的で確固たる体系を築くことができた。これをベースにした様々な技術の累積は、今や、物質宇宙に大きな影響を与える水準にまで達している。一方、倫理と言えば、3000年前のギリシャと比べて、殆ど進化していない。このギャップが、現代の文化文明を危険な道へと導いているのである。

 この危険な道から脱却するためには、人間の心に湧き上がる倫理感情に更なる力を与え得る新しい哲学が必要となる。その昔に作られた宗教や哲学は、多くの点で、科学や数学の客観的で確固たる体系の力によって修正されなければ、現代に通用しないのだ。
 宗教に潜む独善主義(例えば、教祖への盲信や原典主義)は、明らかに、時代遅れである。古くからある哲学の諸説も、科学的・論理的な矛盾があれば修正しなければならない。また、人間の能力では客観的な証明のできない、科学の対象範囲を超えた前提は、仮説として謙虚に提示されなければならない。

 一方、科学や数学も謙虚でなければならないのである。なぜなら、前述の通り、科学や数学の前提となる公理や論理(その底を流れる絶対感・真理感)は、神を信じるように信じるしかない、人間の能力を超えた領域にあるからだ。宇宙の全てが、科学や数学的手法で解明されることはない。人間の能力を超えた領域を土台にして科学や数学が成り立っていることを忘れてしまっては、便利で物質的に豊かな現代文明も永続きはしないのである。

中真似と外真似、本物と偽物 Contents-mimic and Surface-mimic, Real Thing and Fake

 人は、誰でも、人真似をして育つ。そして、人真似には二種類ある。一つ目は、人の持っている何かに共感し、それを真似るものである。この場合は、中身に価値を見つけ出して、それを真似ているのである。これを中真似と呼ぼう。二つ目は、世の中で流行っているもの、有名人がやっているもの、その外形を真似るものである。中身そのものはどうでもよい。皆がやっているから、ただ、それを真似したいのである。これを外真似と呼ぼう。同じ人真似でも、この二つは根本的に違う。

 外から見てこの両者は、区別が付き難い。例えば、サッカーをやりたい少年がいる。この少年は、本当にサッカーが好きなのか、仲間が、皆、サッカーをやっているからやりたいのか、この区別は簡単には付かない。そもそも、半々ということもある。やりたい本人も分からないことが多い。

 外真似も馬鹿にしてはならない。やっている内に、本当に、中身に価値を見つけ出す者もいるからである。「石の上にも三年」、自意識過剰になって、自分探しをする若者には、これを勧める。

 一つ目、即ち、中真似は本物を作る。二つ目、即ち、外真似は偽物を作る。この意味で、嫌がるものを押し付ければ、偽物になるだけだ。世の中には、偽物の人間が圧倒的に多い。親や教育者、そして、社会環境に責任がある。子供を本物にしたい親は、この二種類の人真似について理解を深めて欲しい。世の中に本物が増えれば、世の中は進化し、世の中はさらに面白くなる。

Anyone grows by imitating the others. And there are two types of imitation. The first is to empathize with something that a person has and imitate it. In this case, it finds value in the contents and imitates it. Let’s call this “contents-mimic”. The second is to imitate on the surface what is popular in the world, what celebrities are doing. In this case, the contents themselves do not matter. Everyone is doing it, so I just want to copy it. Let’s call this “surface-mimic”. These two are fundamentally different.

From the outside, it is difficult to distinguish between the two. For example, there is a boy who wants to play soccer. It’s not easy to tell whether the boy really likes soccer or he wants to do it because of his friends’ influence. In the first place, it may be half and half. They often don’t know who they want to be.

Don’t make a fool of “surface-mimic”. It is because there are many people who really find value in the contents while doing it. “Three years on the stone,” I recommend this aphorism to young people who are self-conscious and looking for themselves.

The first one, namely, “contents-mimic” makes the real thing. The second one, namely, “surface-mimic” makes a fake. In this sense, if you force your chldren to do what they dislike, it will make a fake. There are many fake people in the world. Parents, educators, and social environment are responsible to this state. Parents who want their children to be the real thing should deepen their understanding of these two types of imitation. If there are more of the real thing, the world will evolve and the world will become more interesting.

泣きと笑い

 感情が高まり、緊張やストレスが或る限界に達すると、それを無意識的に、且つ、一気に崩す仕組みが、心と体に連携して作られている。

 喜びと悲しみはコインの表裏である。喜びと悲しみが限界に達すれば、涙が出る。恐怖の場合には、失禁が生じる。ちなみに、オオクワガタの幼虫にも恐怖の感情が湧き上がる。オオクワガタの飼育をした人の多くは気付いているだろうが、菌糸瓶への入れ替え時に、急に箸で摘まんだりすると、恐怖の余り脱糞する。
この種の感情は、本能として、小さな脳の昆虫にも湧き上がるのだ。「感情とは何か、どこに存在するのか」を考える絶好のきっかけとなる。「お前はオオクワガタではないのに、なぜ、その感情が分かるのか」と言う人がいる。その質問に対する答えは、「他人の感情を直感するのと同じだ」と言うしかない。
創造主・自然の力は素晴らしいもので、この脱糞は、敵をびっくりさせる効果もある。また、少しでも体をスリムにして穴に逃げ込み易くする効果もある。オオクワガタに馴染みのない人は、蝉の小便を思い出して欲しい。

 少し、複雑なものが笑いである。基本的には、前述の仕組みと同じだ。緊張の消失に伴う安心感や満足感の中での笑い、緊張を保っていた認識に突然のずれが生じ一気に緊張が解けて安心した時の笑いなどがある。前者は、赤ん坊の笑いやホッとした時に出る柔らかな笑いだ。後者は、ジョーク、ユーモア、ウィットなどで、高度に選別されている。謎掛け遊びの中にも潜んでいる。単なるストレス解消から、人生を楽しくするもの、人付き合いでのトラブルを避けるものまである。文化的にも、社会的にも、とても大切なものだ。
さらに、笑いは複雑である。社会的な意思表示として、意識的に作ることもある。これらには、他の感情も入り混じっている。笑って、逆に、それに相応する心の状態を作るのだ。愛想笑い、作り笑い、ネガティブなものでは、嘲笑などが考えられる。
笑いとは、体の動作と心の状態が繋がって循環運動をしているものだ。どちらが先でも構わない。笑う門には福来たる。心が笑えば、体が健康になる。体が笑えば、ストレスから解放されて、心が健やかになる。

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