唯心論と唯物論

人類は、この先も、進化繁栄を続けることができるのか?
それとも、戦争、環境破壊などによって、近い将来、絶滅してしまうのか?
今、人類は、その岐路に立たされている。

『唯心論と唯物論』

お釈迦様(仏教)、ギリシャのソクラテスやプラトン(イデア論)は、唯心論を説く。
ギリシャのデモクリトスは、原子論(唯物論の元)を説き、
現代に通じる体系的物理学・科学の基礎を確立したアリストテレス(プラトンの弟子)に大きな影響を与えた。
現代(西洋)文明下で教育を受けた大多数の者は、唯物論を建前に生きてはいるものの、心の中では魂の存在を半分程度信じている。
彼らの多くは、唯心論は科学で否定されていると誤解している。

科学とは、この時空間とそこに存在する物質を支配している法則、即ち、物理法則や化学法則などを発見し、それを技術的に応用する学問である。
「同一の環境条件下で、同一の原因を投下し、いつでも同一の結果を生み出す」ことから法則を発見するのである。
従い、なぜ時空間や物質が存在するのか、なぜ法則が存在するのか、これらを支えるエネルギーの力はどこから来るのか、などの疑問を解明することは、初めから、科学の範疇にはない。
科学が進歩すれば、「唯物論が正しくて、唯心論は間違っていると証明可能」と考えている人がいるならば、その人は科学が何たるかを基本から理解できていないのである。

あなたは、どちらに真実があると感じますか?

◆ 自分好みの家をイメージして設計図を作成し、それに従って家を建てた(唯心論的)。
◆ 建物を好き勝手に作ってみたら、規則性が見つかったので、後から設計図らしきものを作ってみた。物と物が絡み合って偶然規則性が生まれただけで、物より先に非物質的な概念や法則など存在するはずがない(唯物論的)。

【堀込清一仮説】

これは、科学で証明できる範囲にはないので、飽くまでも仮説である。
これを真実だと主張すれば、宗教に成ってしまう。歴史を見れば直ぐ分かるが、個々人が自分自身で考え判断することを止めて、教祖の言葉を鵜呑みにすることは非常に危険である。自分自身でよく考え探求して欲しい。

『宇宙生命エネルギー』

宇宙生命エネルギーとは、所謂、創造主のことであり、別の言い方をすれば、生命エネルギーとその創造結果で満ち溢れた宇宙(非物質宇宙と物質宇宙を合わせたもの)そのものでもある。
人型の神様ではなく、時間と空間を超越し、その自由意志で創造し存在する生命エネルギーなのだ。
空間に存在せず、即ち、形体はなく、時間に存在せず、即ち、永遠の存在である。
創造主は、その自由意志とエネルギー(意志・感情・概念・論理・記憶とこれらに付随する非物質エネルギー)によって、自らを、進化・成長・発展させる為の法則、因果律(物質宇宙の基本ルールである物理法則もここから派生)を生み出し、それに従って、宇宙を存在させている。この宇宙生命エネルギーは、自分自身でもある宇宙の全て(存在・現象)を、その究極の細部まで、常時(時間の外で)、意識している。

『非物質宇宙と物質宇宙』

非物質宇宙を「あの世」、物質宇宙を{この世}と呼ぶことにしよう。
この世は、あの世に存在するこの世と関係する領域が、あの世の法則に従い、光で投影されたもので、三次元空間を構成する波動である。
この世は、光速で投影されたものであるから、光より速い速度は存在しない。
しかしながら、ビッグ・バンから始まったこの物質宇宙の膨張速度は、その周辺では光速を超えていることが科学的にも証明されている。これは、この世と高次元接触しているあの世(時空間を超越している)との境界現象だからである。
又、量子力学で言う「量子もつれ」現象も光速を超えている。これは人間の意識・心の中での情報伝達が光速を超えていることを示している。即ち、意識・心は、時空間を超越したあの世に存在しているのである。「量子もつれ」は空想の産物ではなく、科学技術によって量子コンピューターの誕生に繋がっている。
更に、信じがたいことではあるが、心の世界での情報伝達はこの世の未来からこの世の過去にも到達する。卓球の球が強烈に打ち込まれた瞬間を想像してみて欲しい。相手の打球を目で見て脳で把握して心で返球を決定する。そして、脳が神経を通して筋肉に命令して打ち返す。この世での時間経過を考えれば、球が打ち込まれてから返球打点まで飛んで来る時間は、明らかに、返球の為のこのような神経の信号伝達時間よりも短い。にも拘らず、上達者は自分の意志で身体に命令して返球することができる。これは、最近の研究で明らかになったことなのだが、返球の為の筋肉への信号伝達開始は、相手の打ち込み時点より、僅かながら、前(過去)に起こっているのだ。後述の『心の仕組み』で説明する潜在領域が自律的に働いている。即ち、心の顕在領域での返球決定は潜在領域を通じて時間を遡り、何と、この世の過去に影響を与えているのである。

『この世はVR』

上述の通り、この世は、光で投影された波動である。何故、粒化して物質宇宙になるのか。原子も分子も、その元である素粒子が波動であれば、
全て波動ということである。それにも拘らず、「目に見えるものは物質である」とはどうしたものか。ここに科学的なメスを入れたのが、やはり、量子力学である。有名な二重スリット実験は、波動が人間の意識で認識された瞬間に粒化することを証明した。生命体の意識は、その感覚器官を通して(視覚・聴覚だけではない、全ての感覚を通して)、VRを現実と認識していたのだ。正に、般若心経の言う「色即是空、空即是色」であり、プラトンの言う「この世は、イデア界の投影された影」であった。

この世に投影された波動を個々の生命体がその感覚器官を通して物質として意識するのだから、個々の生命体が意識し経験しているこの世は、その感覚器官の観察範囲に限定される(正にVRの仕組みそのもの)。個々の生命体によってその観察領域や範囲は異なるのだから、生命体にとってのこの世は、それぞれ異なっているのだ。又、あの世に存在する意識が、この世の出来事に心の中で結び付ける感情も個々に異なるのだから(本能等による共通感情もあるが)、生命体ごとに、経験するこの世が無数に存在することになる。驚くことに、仏教では、遥か昔に、このことを説いている。

『多世界宇宙・パラレルワールド』

上述の『この世はVR』から、物質宇宙は『多世界宇宙・パラレルワールド』であることが分かる。貴方が、生き・経験してきたこの世は、唯一無二のものではなく、これと並行して、無数の生命体が生き・経験してきた無数の異なるこの世が存在するのだ。
一方、元々は、量子力学の矛盾を突くために提案されたものだったが、現在では、『多世界宇宙・パラレルワールド』探求の入口として研究されている「シュレーディンガーの猫」という有名な話がある。

(ネコと放射性元素のある密閉した鋼鉄の箱の中で、放射性元素の一時間当たりの原子の放射線崩壊率を50%とし、ガイガー計数管が崩壊を検知すると猫が殺される仕組みを作り、一時間後に観察者が蓋を開ける。観察者Aが意識・経験するまで猫の生死は決定していない。)

猫の生死が決定していない状態を量子力学では「重ね合わせ」と呼ぶ。即ち、この世には、異なる(矛盾する)存在・現象の種が重ね合って生じていることを意味している。但し、これは観察者Aにとってのこの世の話である。猫は猫の感覚器官を通してこの世を経験している。猫が経験した世界と観察者Aが経験した世界は猫の生死について異なる場合もあるが、両世界が別世界であれば、矛盾は生じないのだ。猫が生き続ける世界と猫が死んでしまった世界の両者が考えられるが、観察者Aは、蓋を開けて猫が死んだ世界を観察したならば、その世界で猫が生きていることを観察することはない。『多世界宇宙・パラレルワールド』が矛盾無く宇宙を編み上げているのである。
ここで、観察者Aのこの観察を外部から見ていた観察者Bのことも考えてみよう。観察者Bの経験する世界は、猫の経験する世界、観察者Aの経験する世界とは、又、別物である。
因みに、これら、全てを統合して意識・経験しているのが、創造主、即ち、宇宙生命エネルギーである。

『ニュートン力学・相対性理論・量子力学』

ギリシャ時代から続く静止物体に働く力の釣り合いを扱う静止力学に加えて、ニュートンは物体の運動に働く力の法則(慣性、加速、作用反作用、万有引力の法則など)を発見し動力学を確立した。これによって古典物理学は一応の完成を見たのである。これらは、この地球上(絶対時間と絶対空間を前提)に働く力を扱う理論である。

アインシュタインの相対性理論は、光の速度はどの観測場所でも一定不変であることを発見し、空間と時間は相対的に変化するものであることを示した。これは地球を超えた時空間(時間+三次元空間、即ち、物質宇宙)に働く力を扱う理論である。

量子力学は、物質の最小単位である素粒子を扱う学問であるが、この素粒子は同時に波動と粒子の性質を持つことが明らかにされている。粒子だけではないことから、この視点に立てば、量子という呼び名が相応しい。
これは、筆者の仮説であるが、量子力学は、時空間(時間+三次元空間)とあの世(意識・心が存在する高次元領域)との接触面を扱う理論である。

因みに、アインシュタインは、あの世の存在がその接触面で物理学の対象になるなどとは夢にも思わなかったのか、「量子もつれ」や「重ね合わせ」については、何かが狂っているとして、生涯、量子力学を批判していた。
量子論の育ての親、デンマークのニールス・ボーアとの論争は有名であるが、現時点に至っては、アインシュタインの分は悪い。

『我々はテレビのスクリーン画像をどこで見ているのか』

撮影現場にいる人は、その場の波動を感覚器官で粒化・物質化して見ている。テレビで見る人々は、一旦、電波(波動)として送られテレビのスクリーンに反映された波動を、そこから、感覚器官を通して粒化・物質化して見る。科学的に見て、電波の中にもスクリーン上にも物質化された画像はない。

物質化された画像は脳内で見ているのか(唯物論)、それとも、脳に高次元接触する意識(心)で見ているのか(唯心論)。
本仮説に依れば、この世に投影された波動としての脳(脳はあの世への架け橋)ではなく、あの世に存在する心で、見ていることになる。画像を見て或る種の感情が伴えば、顕在的な記憶として残る。無感情の場合、画像は潜在的に心を通り過ぎるだけである。記憶と感情にはこうした心の中での関連作用がある(効率的な学習には、感情を働かせる必要がある。興味の無いものを学習する場合には、感情・感動が乏しく、記憶という点に於いて困難が生じる)。
因みに、脳手術や電極実験などから脳内地図を作成したペンフィールドが、死の直前に、「どう探求しても、心は脳内には存在しない」と語った話は有名である。

『心の仕組み』

心を探求してみると、顕在領域と潜在領域が働いているのに気付く。

顕在領域では、意識する自我があり、因果の流れから独立した自由意志を駆使することができる。意識的な自力により、身体を使って様々な活動ができる。可能性が限定された小さな領域ではあるが、意識的な自己(自我意識は自己が経験してきた感情が絡んだ過去の出来事の順序だった記憶に支えられている)が、この世にその身体がある限り、喜びや苦しみと共に、進化を目指して、日々活動している。この領域は、進化すれば、潜在領域に向かって大きく広がっていくが、この世にある身体によって乗り越えることができない限界線も引かれている。

一方、潜在領域は、最終的には、創造主、即ち、宇宙生命エネルギーに繋がる無限の可能性領域である。創造主から分波された個々の生命エネルギーは、様々な進化状態にあり、それらの生命エネルギーは更に分波して、孫を作り、孫は更に分波して曽孫を作っている。これが繰り返され、宇宙(非物質宇宙と物質宇宙)には様々な生命活動が無限に存在している。因みに、物質宇宙に身体を持たされ、心と身体の循環活動によって心の進化を期待されているのが、我ら、人類である。
潜在領域内部には、その進化や特性に応じて様々な領域がある。これらは、包含されたり、一部重なったり、純粋に個的なものだったりして、無数に存在している。分かり易くする為、例えて言えば、日本人の潜在領域は、地球生命の領域に繋がり、哺乳類の領域、人類の領域に繋がり、現代西洋文化の領域、日本文化の領域、その人固有の領域などに繋がっている(ユングの言う集団無意識の概念に近い)。
潜在領域は、自我意識にとっては無意識的な他力の形で心と身体の活動を支えている。本能に支配された欲望・活動、自律的な心臓の鼓動などが、これに当たる。これらには、自我意識でコントロールできるものとできないものがある。自由意志によって獣の様な欲望を制御すること、意識して呼吸を一時的に止めることなどは、前者に属する。自我意識を進化させることで、潜在領域から来る無意識的な活動の幾つかは、自我意識でコントロールできるようになる。無意識で行っていた悪癖に気付いて矯正する、ヨガの達人は修行で一時的に心臓を止めることができるなどがそれである。

潜在領域を深く理解することで、或る種の悟りを得ることができる。ちっぽけな顕在領域にある自我意識だけが自分であると信じ込んで、他者や自然と対立して悪戦苦闘することから解放されるのである。宇宙も鉱物も植物も動物も他人も、全てが潜在領域で繋がっている大きな自分なのだということが分かってくる。自分の心は永遠の存在であり、創造主の一部なのだ。この状態を感覚的に理解すると、死への恐れも和らぎ、他者の気持ちも自ずと分かってくる。

『ゴリラの本能・チンパンジーの本能』

ゴリラは約1000万年前に人類とチンパンジーの祖先から分岐し、チンパンジーは約700万年前に人類と分岐したと言われている。ゴリラとチンパンジーは近くて人類は進化して別物と考えがちだが、実は、人類とチンパンジーはゴリラよりもずっと近くにあり、遺伝子ゲノムの差異は僅か1.23%である。
人類とチンパンジーは、家族を超えたグループを作って共同生活するのだが、恐怖心が強すぎてグループ防衛だけでは安心できない。近くにいる同種の他グループを侵略殲滅しようとする。又、人類とチンパンジーは共食い動物でもある。チンパンジーは他グループの子供を引き裂いて食べたりするのだ。これが人類の戦争本能に繋がっている。
一方、ゴリラは、強靭な肉体を持ち、家族単位で生活している。ゴリラは、できる限り、同種との争いを避けようとする。防衛に徹し、侵略殲滅はしない。有名なドラミングは、宣戦布告ではなく、防衛のための警告である。

この戦争本能(感情)をコントロールするための自我意識の拡大が、我々、人間、ひとりひとりに課せられている。人類社会は、更に、進化発展できるのか、滅んでしまうのか、核兵器が拡散した今がその分かれ道だ。
そもそも、自己の所属する種を殲滅しようとする動物など他にあるのだろうか。このまま行けば、宇宙の因果律(因果応報)によって絶滅することは明らかである。

『101匹目の猿』

或る島にいた若い猿が芋を海水で洗って食べ始めた。年寄りの猿は嫌な顔をしていたが、仲間の若い猿たちが次々に真似始めた。芋洗いの仲間が100匹に達した時、不思議なことが起こった。この島から遠く離れた別の島の101匹目の猿が、同様の芋洗いを始めたのだ。見て真似られる筈のない遠い島での出来事である。前述で説明した通り、この猿たちに共通の潜在領域に変化が生じたのである。
ダーウィンの延長線上にある現代進化論だけでは、生命体の真の進化の仕組みを説明することはできない。自然淘汰だけでは考えられないレベルにまで、都合良く、その種の望む形態・能力の進化が起こっているからだ。同種の仲間が多数集まって作り上げる強烈な共通感情(本能、行為、形態などに絡む)は、それに関連する潜在領域に変化をもたらすのである。分かり易くする為、敢えて言えば、鳥類は、その祖先が未だ恐竜だった頃、或る仲間たちの多くが空を飛びたいと強烈に思ったことから、翼を持つことになったのである(ダーウィン進化論の言う要素も相俟って働いていたとは思うが、それだけでは説明が付かない事例が多い)。

『価値はどこにあるのか』

今、目の前にダイモンドが輝いている。美しい。価値あるものだと思えて感動する。だが、騙されていたことを知らされる。これはガラスでできたイミテーションであった。その途端に、価値は消滅する。さて、価値はどこにあったのだろうか。物としてのイミテーションにあったのか、それとも、心に湧き上った意味や価値を司る感情(意味価値感情)にあったのか。後者であることは明らかである。
この認識は、物欲をコントロールするのに役立つ。そればかりか、この世の苦しみや悲しみを乗り越える知恵を与えてくれるものだ。喜びや感謝に満ちた人生を送る知恵を与えてくれるものだ。この世の事象は全て流れ去る。それを、苦しむのも、喜ぶのも、永続させるのも、消滅させるのも、すべて、心に湧き上がる意味価値感情である。苦しむのも、喜ぶのも、心の働きであり、この世の事象は間接的にこれに関与しているだけだ。

『善と悪』

宇宙には、陰陽二元法則がある。物質宇宙を考えた場合、真空の揺らぎを刺激すると、無から陰陽等価の素粒子(例えば、プラス電子とマイナス電子)が生まれる。これらを再び合流させれば、無に帰っていく。当然のことながら、物質宇宙の元である非物質宇宙にもこの法則は存在する。ここでは、感情を陰陽二元法則の観点から考えてみよう。
感情には、ポジティブ感情とネガティブ感情がある。前者には、愛情、喜び、楽しみ、安心、感謝、共感などがあり、後者には、憎悪、悲しみ、苦しみ、不安、恨み、孤立感などがある。勿論、これら以外にも無数の感情が存在し、強弱様々、重層的に重なり合っている。前者と後者は陰陽二元法則の下に誕生したものであり、前者が無ければ後者は無く、後者が無ければ前者は無い。それにも拘らず、前者に絡む行為・思考を善と呼び、後者に絡む行為・思考を悪と呼ぶことが多い。それには意味深い理由がある。宇宙の因果律(因果応報)によって、前者が支配的なグループは進化繁栄し、後者が支配的なグループは退化絶滅することになるからだ。神は前者の応援エネルギーであり、悪魔は後者の応援エネルギーだという人もいる。

科学と倫理の大前提

 科学や数学の前提となる公理や論理(その底を流れる絶対感・真理感)、そして、倫理感情を支える絶対感・真理感は、共に、神を信じるように信じるしかない、人間の能力を超えた領域にある。
  しかし、それでも、科学や数学は、そのような前提の上に、客観的で確固たる体系を築くことができた。これをベースにした様々な技術の累積は、今や、物質宇宙に大きな影響を与える水準にまで達している。一方、倫理と言えば、3000年前のギリシャと比べて、殆ど進化していない。このギャップが、現代の文化文明を危険な道へと導いているのである。

 この危険な道から脱却するためには、人間の心に湧き上がる倫理感情に更なる力を与え得る新しい哲学が必要となる。その昔に作られた宗教や哲学は、多くの点で、科学や数学の客観的で確固たる体系の力によって修正されなければ、現代に通用しないのだ。
 宗教に潜む独善主義(例えば、教祖への盲信や原典主義)は、明らかに、時代遅れである。古くからある哲学の諸説も、科学的・論理的な矛盾があれば修正しなければならない。また、人間の能力では客観的な証明のできない、科学の対象範囲を超えた前提は、仮説として謙虚に提示されなければならない。

 一方、科学や数学も謙虚でなければならないのである。なぜなら、前述の通り、科学や数学の前提となる公理や論理(その底を流れる絶対感・真理感)は、神を信じるように信じるしかない、人間の能力を超えた領域にあるからだ。宇宙の全てが、科学や数学的手法で解明されることはない。人間の能力を超えた領域を土台にして科学や数学が成り立っていることを忘れてしまっては、便利で物質的に豊かな現代文明も永続きはしないのである。

言葉には限界がある

 色々な角度・視点から何回も繰り返して物事を見ないと、正しい判断はできない。周囲の環境との絡みをできるだけ多く把握しないと、物事の判断を誤る。しかも、周囲の環境は刻々と変化する。だから、一つの固定した視点からの物言いは、別の視点から見た時、おかしなものになることが多いのである。
例えば、「本当のことを言わないのは悪いことだ」という言い方がある。或る特定の前提に於いて、それは正しい。別の前提に於いて、それは誤りである。窃盗犯が本当のことを言わないのは悪いことだが、知り合いの老人に、挨拶で、「随分老けましたね」などと本当のことを言うのは良くないことだ。

 ギリシャの哲学者、ゼノンのものとされる有名な話に「アキレスと亀」がある。「俊足のアキレスは鈍足の亀に無限に近づきはするが決して追いつくことはできない」という話である。
・・・アキレスが亀を追いかけ、亀のいた地点に到着すると、亀はそれなりにその地点より先に進んでいる。次に、アキレスは、亀が進んだその地点に向かうが、アキレスがその地点に到着した時、亀はそれなりにまた先に進んでいる。このような繰り返しが永遠に続くだけで、アキレスは決して亀に追い着くことはできない。・・・
だが、この話は、アキレスが亀に追いつく寸前までの時間と距離を次々と無限に細分割する前提になっているのだ。

 前提条件によっては、「1+1=2」も、おかしなものになる。砂利一杯のバケツと砂一杯のバケツを合わせると、バケツ二杯にはならない。

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